会員の便り No.3

第20回 親鸞聖人 関東御旧跡巡拝の旅行(西念寺コース)
平成20年6月28〜29日
8ヵ寺巡拝のしおりと記録写真
(参考文献:「親鸞のふるさと」、「各寺由緒記」)
西念寺 唯信寺 光照寺 大覚寺 如来寺 専修寺 蓮華寺 称名寺
 
 笠間市稲田 別格本山 西念寺楼門の前で
立教開宗の聖地
            西念寺     (単立別格本山)
                       茨城県笠間市稲田22
                   開基:教養房(稲田九郎頼重)
裏山から見た西念寺、板敷山を望む
ご案内くださる堂僧
 
聖人みかえり橋のそばで 
 「聖人越後の国より、常陸の国笠間の郡稲田郷というところに隠居したもう」(御伝鈔)とある稲田山は、親鸞聖人一家がほぼ二十年間過ごしたとされるところである。また、親鸞聖人が浄土真宗の根本聖典「教行信証」をまとめたところとして、重要な場所である。
  酉念寺は広々とした田圃と、うっそうとした木々に抱えられている。左側に杉を従えた長い参道を進み、室町期の建造と伝えられる楼門をくぐって境内に入ると、やや奥まったところに本堂がある。聖人が草庵を結んだ跡である。
  本堂の前には、弁円ざんげの桜、聖人使用の杖より芽を生じた御杖杉、鹿島明神から寄進されたという神原の井戸などがあり、とくに聖人お手植えとされる「お葉つき銀杏」の巨木は、天然記念物になっている。
境内右手を登ったところにある聖人御廟に参り、太子堂から教養房の墓に行くのもよい。
  寺伝によれば、教養房は宇都宮頼網の息男で、俗姓を稲田九郎頼重といい、聖人をこの地へむかえた人物という。
  聖人は、この地を「盆地であり、山の景色が京都の東山に似ている」ということで、大層喜んだということである。
  聖人は、文麿二年(1235年)帰洛するまで、この西念寺を布教生活の根拠地としていた。
  稲田を発つとき、聖人は「聖人みかえり橋」の上で、名残惜しそうに草庵を振り返ったという。今は、田圃の中に、碑が立っている。



二十四輩第二十二番(外森山西岸院)
              唯信寺  (真宗大谷派)
                     茨城県笠間市太田町436
                                          開基:唯信坊 
 
 唯信寺
唯信寺の親鸞聖人像の前で 
 
 本堂の前で



 笠間街道沿いの宍戸駅近くに、唯信寺がある。街道からそれて細い道を入っていくと、左側に樹齢四百五十年という大きな椎の古木が見える。風格のある山門を入ると、落ち着いた雰囲気の境内が広がる。
 唯信寺の開基唯信房は、宍戸城主宍戸四郎知家の三男で、俗姓を山城守義治といった。若いころから仏教に興味を持ち、親鸞聖人の教えに感激していたという。
 寺伝によれば、二十二歳のとき、聖人のお弟子になった。若くして無常を味わい、聖人のお弟子になられた人は珍しい。聖人の関東御教化の時は、いつもお供して細かな仕事をしていたという。
 そのころ、聖人の御意志に従い、奥の郡戸守村に一宇を建立したが、これがお寺の起こりである。
 開基唯信房は、学者肌の人だと伝えられており、鎌倉執権北条氏が聖人に発願した“一切経交合”の時は、聖人の仕事に助力したという。
聖人は京都へ帰るとき、名残を惜しまれ、形見として自刻の真影を唯信房に授けられた。
 歎異抄第二章に、「おのおの十余カ国の境を越えて、身命をかえりみず・・・極楽往生の道を問い聞かんがためなり」とあるが、そのときのお同行は唯信寺の門徒が多かったと伝わっている。
 寛文七年に現在の地に移った。文化文政のころ、宍戸藩内は天災飢饉が続き、人身荒廃、人口が激減した。これをどう補えばよいかと、藩主から唯信寺住職に下問があった。「信仰厚く、丹誠な良民の移住こそ良策」と進言。加賀、能登、越後より、移民を住職自ら勧誘引率して、領内各所に殖民させた。
 現在の唯信寺門徒の大半は、この人々の子孫であるという。
 唯信寺は第二次大戦の戦火に遭い、多くの宝物も烏有に帰した。六年後再建された本堂には、他所に預けてあって無事だった親鸞聖人の御真影が安置されている。


 関東お草履ぬぎの聖地・笠間御草庵
              光照寺  (真宗大谷派)
                     茨城県笠間市笠間2591
                                          開基:教名房 
 
光照寺(ご案内書より)


















 笠間には、親鸞聖人が草庵を結んだといわれる所がたくさんある。稲田、笠間、黄楊谷(吹雪谷)などだが、この光照寺は「笠間御草庵」「関東お草鞋(わらじ)ぬぎの聖地」として欠かすことができない。笠間街道をはずれて車で3分。樹齢六百年という杉の大木がそびえ立つ山門が印象的である。
 光照寺は教名房の開基である。寺伝では、教名房の父は笠間城主庄司基員(もとかず)となっており、親鸞聖人に帰依し、文化が栄えていた笠間の地を根拠にして布教するよう、聖人を招いたという。光照寺縁起が「立教開宗の基点であり、原始真宗淵源の聖地」としている理由だ。縁起はさらに「東関東に於いて最も古い草庵であり、御消息集にあるいわゆる“かさまの念仏者”居住の地である」と記し、「初めて心から落居なされた所」と書いてある。
 教名房の祖父基真が鹿島神宮造営に際し、工匠の指導に当たっていたある秋の夜、鹿島沖に波間にただよう寄木を発見、持ち帰った。その夜夢の中で枕元に老翁があらわれ「こよい海上に得しは、天竺仏生国より流離せる霊木なり、汝、子孫に伝えて雑用すべからず」と告げて消えた。
 それから数十年、親鸞聖人が常陸の国に入って七年の後、聖人四十八歳の早春、京の風景に似ていると喜んだことや、庄司邸にあるたくさんの仏典を喜び、永住の意志を固めた親鸞聖人は、有名な『教行信証』を編纂する意思を基員にもらし、さらにこれを機に、ご本尊の彫作をしたいと告げた。教名房は好機到来と、父祖伝来の秘材を見せると、聖人は無言のまま受け取ったが、日夜精魂こめて二尺八寸の尊像を完成させた。
 この尊像を前に『教行信証』の筆を執り、その後四年間推敲、清書を続け、一応の完成に至っている。執筆地は笠間より西の方、稲田黄楊谷という静かなところだったとしている。 

  親鸞聖人法難の地
              大覚寺  (浄土真宗本願寺派)
                     茨城県石岡市大増3220
                                          開基:善性房 
 
 大覚寺
 
 山伏弁円懺悔の木像




 板敷山は、親鸞聖人が、山伏弁円に襲われそうになった法難の地として、有名である。この板敷山の山ふところにあるのが、大覚寺である。
 人皇八十二代後鳥羽院の皇子正懐親王が、周観大覚と称し、東国諸州を行脚したとき、親鸞聖人と会ってその門弟となり、善性房と名乗り、板敷山の麓に草庵を結んだ。これが大覚寺の草創と言われている。
 山伏の播磨坊弁円は、修験道の大家として、金砂の佐竹末賢に重んじられ、久慈西郡塔之尾楢原谷に護摩堂を建て、人々の尊信を集めていた。
 ところが、親鸞聖人の教えに人々が傾くのを快く思わず、聖人殺害を決意して、弟子三十五人と板敷山南麓に、聖人を待ち伏せした。弁円は山頂に護摩壇を築き、三日三晩待ったが、この道を通るはずの聖人は一向に姿を見せない。業を煮やした弁円は、ついに武装のまま、夜半、稲田草庵を襲うのである。
 ところが、初めて親鸞聖人を見た弁円は、聖人の温かく人を包み込む不思議な魅力にたちまち害心を失い、山伏の身分を捨てて、親鸞聖人の弟子になった。
 弁円は明法房という名を与えられた。このとき弁円が詠んだ歌が伝わっている。
 「山も山 道も昔にかはらねど かはりはてたる 我がこころかな」
承久三年(1221年)、親鸞聖人四十九歳、弁円四十二歳の秋であった。以来、明法房は誠心誠意、師に仕えるのである。
 板敷山には、かつての護摩壇跡があり、大覚寺の本堂には、弁円懺悔の木像が安置してある。
 山門を入ると、左側にカンザン竹の群生が、直径三メートルの円の中に生い茂っている。境内にはこのほか四角い竹、四方竹や、シュロの木に松が生えているヤドリギなど、珍しい植物がある。また、どこから見ても表側の眺めで、怨みなしという弁円の心境をあわせた「裏見(うらみ)なしの庭」という庭園がある。

 二十四輩第四番(霞ケ浦ご草庵)
              如来寺  (真宗大谷派)
                     茨城県石岡市柿岡2741-1
                                          開基:乗然房 
 
 如来寺
 
 親鸞聖人お手植えの菩提樹


 柿岡は、北の郡の中心地。ここに二十四輩の第四、乗然房を開基とする如来寺がある。
乗然は、門侶交名牒に「乗念」と書かれ、南の庄に住していたことが知られている。
 二十四輩次第記録には「常州南庄志田の如来寺」として、寺もはじめは霞ヶ浦にのぞんだ南の信太にあったことを伝える。
 寺伝によれば、親鸞聖人が下妻にいたとき、たまたま霞ヶ浦を訪れた。そのころ、霞ヶ浦に怪しい光を放つものがあって、魚類は近寄らず、漁師たちは漁のないのを嘆いていた。
 親鸞聖人はそれを見て、この光は決して怪しいものではなく、仏体から放つ光であろうと言い、網を降ろすと果たして阿弥陀仏の尊像であった。
 そこで、信太の浮島に草庵を結び、尊像を安置して、村人たちの信仰の道場とした。
 これが如来寺のはじめといい、また、引き上げられた阿弥陀仏像は、滋賀県中主の真宗木辺派本山錦織寺の本尊となっている。
 如来寺の山門には“霞ヶ浦御草庵”の大きい石碑と、芭蕉の“能くみればなづな花咲くかきねかな”の句碑があり、本堂に安置する太子像は聖人自刻といわれ、古い作風を伝えている。
境内には、“親鸞聖人お手植えの菩提樹”がある。

 二十四輩第二番
           専修寺 (浄土真宗高田派元本山)
                  栃木県芳賀郡二宮町高田1482
                                      開基:真仏房 
 
 専修寺の山門と如来堂
 
 専修寺でのおつとめ「讃仏偈」








 稲田に草庵を結んだ親鸞聖人は、精力的な布教活動を展開したが、聖人五十三歳の正月、下野国大内一族の懇請により、大内の庄、柳島(高田)に一宇を創立した。これが高田山専修寺である。ここは関東唯一の専修念仏弘通の根本道場として発展し、あらゆる階層を相手として念仏を広めた。
 やがて親鸞聖人は六十歳に達し、京都に帰るとき、道場は直弟子真仏上人に譲った。さらに、真仏上人の後を顕智上人が継ぐことになるのだが、このころになると、高田教団は初期真宗教団発祥の地として、仰がれるようになっている。
 顕智上人の功績は大きく、今に至るまで“念仏高田”と言い伝えられ、毎年八月の顕智忌には、宗派を超越して、数万の人が参詣するという。
 専修寺創立以来、場所を変えておらず、人々もなじみ深く思っているのだろう。広々とした田園地帯の一角を占める専修寺は、人々の憩いの場となっている。
 嘉禄二年(1226年)、親鸞聖人が創建したという藁ぶきの総門をくぐると、広い境内である。正面に見えるのは、山門と如来堂。山門は元禄年間の建築で、総けやき造り。如来堂は親鸞聖人がこの寺を造営するとき、本尊として長野善光寺から迎えたという金像を安置している。これは元禄十四年(1701年)の再建だ。
 右側には万治二年(1659年)に建築された御影堂がある。豪壮な建物は境内の圧巻だ。七堂伽藍の配置が見事な構図をみせている。御影堂の中には、県指定重要文化財の親鸞聖人等身御影が安置されている。お堂の中には、このほか多くの宝物が納められている。真仏上人坐像、顕智上人坐像、正像末和讃、親鸞聖人御消息集などである。
 御影堂は、老朽のため修復し、平成元年、落慶法要が行われた。
 広い境内を渡る風は、昔と変わらず、古木の葉をゆすっている。

 親鸞聖人大蛇済度ご旧跡
            蓮華寺  (浄土真宗本願寺派)
                    栃木県下野市国分寺町1301
                                       
 
 蓮華寺
















 親鸞聖人大蛇済度の旧跡「花見が岡」蓮華寺の由来は次の通りである。
 大光寺村の川井兵部の妻が嫉妬深く、邪見であったので、兵部はひそかに妾を囲っていたが、妻がこれに気付き、憎悪の心激しく、ついに兵部と妾の二人を殺してしまった。
 二人を殺した妻は大蛇と化し、深淵に住み、あばれ出ては村人を殺し、食べ、人々の恐れをかっていた。
 村人はその鬼女をなだめようと神に祭り、毎年九月八日夜に、くじで当たった娘を一人”いけにえ“とすることにした。
 そのくじが宮持の神主大沢掃部正(かもんのかみ)友宗の一人娘に当たった。神主友宗は、祓い、祈祷したが、効験なく、困り果てていた。
 その時、建保三年(1215年)、親鸞聖人は常陸国小島郡郡司武弘公のところに滞在されていた。友宗は聖人を訪れ、ことのわけを話した。聖人はこれを聞かれ、神主の家に出かけ、娘に生死出ずべき道は、南無阿弥陀仏のほかないことをさとされた。
 祭りの日、娘はいけにえの壇に登り、合掌、念仏をとなえていた。大蛇は一口に呑もうとしたが、娘の「今ぞ臨終」との念仏にくじけたのか、大蛇は水底に沈み、暁には、娘は無事に帰った。父母たちは念仏の広大さに、深く感謝した。
 聖人はその池のそばに草庵を結び、小石を集め、三部経典を書写して淵に投げ入れられた。七日目の夜、大蛇は女身と化して草庵に来て「明日往生の本懐をとげまする」と語った。
 明くる日、人々は聞きつけ、集まってきた。虚空に音楽が響き、西の空より紫雲たなびき、大蛇はたちまち雲中の菩薩となり、天華を降らし、往生をとげたという。人々が称名念仏すれば、空より蓮花が降ってきた。それゆえ、この地を「花見が岡」と聖人が名づけられたと伝わっている。
 のちに、草庵は「紫雲山蓮華寺」と号した。


 結城御坊
            称名寺  (浄土真宗本願寺派)
                    茨城県結城市大字結城152
                    開基:真仏房
 
 称名寺
 
 称名寺の堂内でお話しを聞く
旅の最後は「重誓偈」のおつとめをした




 結城の街は古い。十三塚、三十三塚と呼ばれる、さまざまの古墳群があり、昔から多くの人がここに住みついていたことを証明する。さらに天慶の乱の平将門の遺跡や、日本三大戒壇の一つである薬師寺、国分寺や、僧鑑真、弓削の道鏡などの墓もあり、当時の仏教文化繁栄を偲ばせる。
 この地方は、法然門下で、浄土教に帰依する武士が多く住んでいた影響もあり、結城城主結城七郎朝光も、早くから念仏者であった。朝光は親鸞聖人が常陸の国に入った建保二年(1214年)のころ、聖人を招請し、他力本願の真髄を聞き、帰依した。建保四年(1216年)には新居精舎を改築、念仏聞法の道場とした。
 その後嘉禄元年(1225年)、結城本郷西の宮に移築し、結城家代々の菩提寺とし、寺基を定め、親鸞聖人の直弟子真仏上人を招請し、称名寺の開基としたのである。
 開基真仏上人は親鸞聖人が京都に帰った後も、教団を統率する大立者として、多くの門下を育てた。これは真宗十派の中に、東西の本願寺と錦織寺をのぞく他の七派の開基が、皆真仏門流によって占められていることを見ても、明らかである。真仏房は、真壁城主で、椎尾弥三郎平春時というのが俗姓で、元来豪族であったが、大変頭の良い人であったという。
 茨城百影の一つ称名寺には、往生要集見聞(親鸞真筆)、来迎三尊仏(親鸞真筆)、真仏木像(真仏作)、恵信禅尼木像(玉日姫像 親鸞自刻)などの宝物が安置されている。
 元禄元年(1688年)に結城城前から移動した本堂は、三百年以上の歴史を持ったなかなかの重みを見せている。称名寺入り口にある門は、寛永三年(1626年)に京都二条家からゆずり受けたものであり、情趣豊かな門である。
 結城市指定文化財の玉日姫の事跡が、近くにある。六百年以上前のものといわれる案内石が田圃の中にあり、苔むした石碑が印象的である。