会員の便り No.5
(2009.1.28掲載)
 
  「築地本願寺 インド仏跡巡拝の旅に参加して
               平成20年1月20〜30日
             学習二年 正坊地邦典
 
 目次
  はじめに
  第一日目[1月20日(日)]・・・・・成田空港発〜デリー空港到着
  第二日目[1月21日(月)]・・・・・釈尊初転法輪の地 サルナート
  第三日目[1月22日(火)]・・・・・ベナレス・ガンジス河畔と釈尊成道の地 ブタガヤ
  第四日目[1月23日(水)]・・・・・ナーランダ大学跡と大経説法の地 霊鷲山
  第五日目[1月24日(木)]・・・・・釈尊が好まれた説法の地 ヴァイシャリ
  第六日目[1月25日(金)]・・・・・釈尊入滅の地 クシナガラ涅槃堂
  第七日目[1月26日(土)]・・・・・釈尊生誕の地 ルンビニ園
  第八日目[1月27日(日)]・・・・・小経説法の地 祇園精舎
  第九日目[1月28日(月)]・・・・・世界一美しい建物 タージ・マハル 
  第十日目[1月29日(火)]・・・・・ニューデリー国立博物館 デリー空港発
  第十一日目[1月30日(水)]・・・・・成田空港着
  インド仏跡巡拝の旅から帰って
 はじめに
  中央仏教学院通信教育生の会(東京地区)のWeb担当世話人から依頼を受け、平成20年(2008年)1月20日(日)〜30日(水)まで11日間にわたった「築地本願寺インド仏跡巡拝の旅」の写真をWebに掲載させて頂いた。
 一緒に勉強をしている教育生の仲間から「写真だけでなく、旅行記を書いて下さいよ。お参りした先々で感じたことをそのまま書いて下さいよ」との要請を受けた。その場では、書く事ができるか自信がなかったので生半可な返事しかできなかったが、薄れゆく記憶や抱いた気持ちを記録に留めたい気持ちを潜在的に持っていたので、懈怠の心に鞭を振るって書き留め、教育生の皆様に報告することとしたい。
  報告の内容は、私が仏跡地で感じた事を中心に書くこととし、それぞれの仏跡地については、後述する参考図書やWebに写真と共に詳細に記述されているので参考にして頂きたい。

 私は、仕事をしていた頃から、「釈尊が誕生され、修行され、悟りを開かれ、説法をされ、そして入滅されたインドの仏跡」を参拝したいと言う願望を持っていた。しかし、11日間もの連続した休みを取る事は夢のまた夢であり、関連した図書等を求め読む事で、仮想的に旅を楽しむことしかできなかった。仕事をリタイアして、今は「林住期」に生き、自由な時間を持てるようになり、釈尊の聖地を巡拝したいと言う思いが胸の中にふつふつと湧いてきた。Web等で、一般の旅行会社、仏跡参拝専門の旅行会社等のツアーを調べたり、問い合わせたりした。私は、単にインドの仏教遺跡を観光旅行するのではなく、「釈尊の聖地を巡拝する旅」にしたいと言う願望を持っていたが、思いはなかなか果たせなかった。
 2007年5月号の「築地本願寺新報」を拝読していた時、「築地本願寺インド仏跡巡拝の旅」を開催計画中との案内が載っていた。早速、築地本願寺伝道学事部の事務局に電話し、参加の申し込みをさせて頂いた。後で聞くと、私達夫婦が、申し込み第1号とのことであった。

 巡拝の旅の行程を追いながら、概要と抱いた気持ち・感想を記す。
  

思いは高まる仏跡巡拝の旅 
 第一日目[1月20日(日)]・・・・・成田空港発〜デリー空港到着
  朝9時成田空港に集合。チェックイン後、結団式。今回の巡拝の旅の参加者は、37名、築地本願寺から引率下さったのは副輪番初め3名、旅行会社から2名、団員は合計42名であった。築地本願寺企画のインド仏跡巡拝旅行は、8年ぶりとのことで、予想の2倍の参加者とのことであった。参加者は、殆どの方が、浄土真宗の門信徒の方々であり、同じ目的意識を持って参加されており、和やかな結団式となった。

 正午、エアインディア機にて成田を出発。先ず、驚いたことは、飛行機の機材の古さ。天井も一部はがれており、飛行機の振動に共鳴して、がたがた鳴った。トイレの壁もボンドで固めてあり、多くの座席も壊れていた。果たしてこの飛行機は無事にインドまで飛んで行けるのか、心配になった。日本の航空会社では、とてもこのような古い機材は使わないし、日本人の乗客からは許されないと思った。これもインド人の大らかさから来るものであるかとも思った。フライト時間9時間半にして、心配をよそに無事にインドの首都デリー空港に到着。空港は工事中であり、大変な混雑であった。現地のガイドさんと落ち合い、空港近くのホテルに投宿した。翌日からの仏跡参拝旅行に期待を膨らませ、床に就いた。
 
 第二日目[1月21日(月)]・・・・・釈尊初転法輪の地 サルナート  
  デリー空港から国内線にて空路聖地ベナレスへ。国内線チェックイン時の検査は厳しく、液体・乾電池は持ち込み厳禁とのことであった。イスラム教徒のテロを未然防止する為との事であった。私達は、チェックイン後、待合室で3時間待たされたが、何の説明もなく、ただひたすら待つのみ。ガイドさんの話では、機材のやり繰りがつかないとか、5日後に控えた共和国記念日の演習のために軍が空港を閉鎖したとか、要領を得なかった。予定より3時間遅れでベナレス空港に到着した。

聖地1:「釈尊初転法輪の地 サルナート」

 バスにて、ベナレスから10km北東にある釈尊初転法輪の地サルナートに移動した。バスは、5人の修行者が、釈尊と再会したと伝えられる「迎仏塔」を車窓より拝し、サルナートに到着した。
 先ずは、考古学博物館を訪ねた。入って直ぐ正面に有名な「アショーカ王の獅子柱頭」が展示されていた。垂れ下がった蓮弁の上にある柱頭の中央に「法輪」(Dharma Chakra)が彫刻されており、その法輪がインド共和国の国旗の中央にデザインされている。また、「獅子柱頭」の3頭の「獅子像」は、インドの国章として、紙幣やコインに表示されている。インドは多民族国家で紙幣は18種類の言語で印刷されているとのこと。現代のインドの宗教では、ヒンズー教が大多数を占め、仏教は極少数派であるにもかかわらず、「獅子柱頭」の「法輪」や「獅子像」が、インドの象徴として使われていたことに、インド人の寛大さを見る思いがした。
 また、インド人にとって「釈尊はヒンズー教の多神のひとり」と考えられているゆえ、特に違和感が無いのかもしれない。博物館の奥に「初転法輪像」が、座しておられた。5世紀の制作と言われ、悟りの内容を柔和な表情で説法される釈尊像と台座に5人の修行者(実際には6人彫刻されている)と中央には法輪、サルナート(鹿野苑)を象徴する2頭の鹿が彫刻されている。詳細は、忘れてしまったが、釈尊のお顔(特に目)は、拝する方角によって「苦悩される顔」と「悟りを開かれた顔」が見えると言う。

  次に、ダメーク・ストゥーパ(大塔)と遺跡群を訪れた。この大塔は、釈尊の初説法を記念して、アショーカ王により創建されたと言う。大塔の高さ32m、基壇の直径28m、その大きさに圧倒された。大塔の前で釈尊の初転法輪を報謝し「讃仏偈」勤行し、副輪番から法話を頂いた。現実に釈尊の聖地を訪れ、釈尊ゆかりの大塔の前で、お勤めをさせて頂く事ができている幸せをしみじみ有難く思った。
  碑文が刻まれているアショーカ王柱の基部を拝し、鹿公園の中を歩く。飛行機の遅れにより行程が大幅に遅れたお陰で、あたりは暗くなってきた。夕闇が迫る中、サルナートの遺跡群の西の彼方に太陽が沈む光景は、まさに神聖な聖地の雰囲気であり、言葉に表せない美しさであった。
  次に、ムールガンダ・クティー・ビハーラ(転法輪寺)にお参りした。寺院の内部には、多くの参拝者が床に座り、読経していた。本堂内部の壁には、日本人の野生司香雪(のうずこうせつ)画伯による26画面からなる釈尊伝の壁画が描かれていた。考古学博物館で拝した「初転法輪像」の石のレプリカを求め、帰国後、インド仏跡巡拝旅行の記念として私のお世話になっているお寺に納めさせていただいた。

 ベナレスのWebサイトに(http://varanasi.nic.in/history/ams1.html)サルナートが説明されており、トップページに戻れば、ベナレスが紹介されているので、ご覧になると良いと思う。

 この日は、ベナレス新市街のあるホテルに投宿。



コインに表示された獅子像












 

ダメーク・ストゥーバの前で
全員写真
(写真:村田誠己氏)





夕闇迫る転法輪寺
 第三日目[1月22日(火)]・・・・・ベナレス・ガンジス河畔と
                    釈尊成道の地 ブタガヤ
  朝5時、モーニングコールにて起床。バスにて旧市街にあるガンジス河畔近くの広場まで行く。ガンジス河畔まで徒歩にて移動。インドのヒンズー教徒にとってヒマラヤに源を発するガンジス河は、聖なる河で「生と死を見つめる母なる大河」と言われている。ヒンズー教徒にとって、ベナレスのガンジス河畔のガート(礼拝所)で沐浴し、死後火葬されガンジス河に流されることが、夢であり、最大の喜びという。まだ、夜明け前であったが、街中は人であふれ、路地では、お供え物の花や灯明を売り、物乞いをする人達でごった返していた。予定では、小船に乗り河からガートを見ることになっていたが、船頭さんの組合のストライキで、乗ることは果たせなかった。組合の掲示には、「政府が不法に税金を掛けようとしているので反対しストライキをやっている」と書かれてあった。代わりにガンジス河畔のガートを徒歩で見て歩いた。
  私達は朝の寒さに身を縮めていたが、ヒンズー教徒の人達は、聖なるガンジス河の水に浸かり、沐浴していた。この頃、ガンジス河の対岸に太陽が昇ってきた。日の出は美しく、デジカメのシャッターを何度も切った。
 歩を進めると火葬場のガートがあった。24時間火葬の煙が絶える事はないという。近くで火葬用の薪が山積みされ売られていた。火葬用の薪は、「松竹梅」と高級品から一般品まであると言う。死後の世界も厳しいことである。近くには、「死を待つ人の館」があり、インドの各地方から死を待つ老人が集まり、心安らかにその日を待っていると言う。ガイドさんに「話には聞いていたが現実にあるの?」と聞いてみたが、「現実にある」との答えであった。 ガンジス河畔から離れて旧市街の路地裏を歩く。道幅は2〜3m、自分ひとりで放り出されたら、とても元には戻れない程、狭く曲がりくねった道であった。路地の側には、ヒンズー教の寺院や日用品や土産物を売る小さなお店が散在し、牛がゆったりと歩き、所かまわず糞尿をしていたが、不潔感は感じず、これが当たり前と思えた。街角に、銃を構えた警察(又は軍隊)の屯所があった。聞く所によると、ヒンズー教の寺院に混ざって、近くにイスラム教の寺院があり、不測の事態を防ぐ為に常駐しているとの事であった。

 リキシャ(力車、客二人乗りの座席が着いた自転車)に乗り、バスの待っている広場まで戻る。リキシャの運転手が自転車を漕ぐ度に、私達乗客は、右に左に大きく揺れ、振り落とされないように必死の思いで座席につかまる。広場に着くと、ガイドさんを取り囲んでリキシャの運転手達が、大声で言い争っている。後で聞くと、ガイドさんは、20台強のリキシャを雇い、リキシャの親玉と値段交渉もし支払いをしたが、代金を貰っていないリキシャの運転手が居ると言う。どうも、代金を2回貰って行ってしまった運転手が居るらしい。どこでも生存競争は厳しく、生きることは難しい。帰りのバスの中で、予定ではガンジス河の中で小船に乗って歌うことになっていた仏教賛歌「聖夜」を歌った。「ガンジス河の真砂より あまたおわするほとけたち 夜ひるつねに守らすと 聞くになごめるわがこころ」。その味わいはひとしおであった。

 ホテルに戻り、朝食を頂き、バスにてブタガヤに向け出発。ここからの仏跡巡拝の旅は、バスにての移動。ベナレスからブタガヤまで距離は260km、7時間半の行程。

聖地2:「釈尊成道の地 ブタガヤ」

 長いバスの旅を終えて、ブタガヤに到着。ブタガヤのマハボディー・マハビハーラ(大菩提寺)を参拝。紀元前3世紀にアショーカ王の創建と言う。7世紀に玄奘三蔵も訪れ、大唐西域記にも記述があると言う。大塔は、高さ52mで威風堂々たる姿は、「仏教の聖地」に相応しい。13世紀にイスラム軍団が、侵入した時、仏教徒達は、大量の土で覆い小高い丘と見せかけ、破壊から守ったと言う。釈尊が悟りを開かれた「金剛法座」の前で、「讃仏偈」勤行し、副輪番より法話頂いた。2500年前の釈尊のお姿を頭に抱きながら有難く拝聴した。大塔の周辺には、五体投地を繰り返すチベット仏教の巡礼者や東南アジア・韓国・中国・日本等多くの仏教徒の巡拝者で賑わっていた。
  副輪番より「菩提樹の葉」を頂いた。この葉は釈尊の成道を表しており、築地本願寺の本堂の屋根にもデザインされていると伺った。帰国後、築地本願寺にお参りするたび、夕暮れの中にライトアップされた本堂の屋根を見る度、「なるほど、菩提樹の葉形だな」と思う。夕暮れ迫る大塔の近辺では、鳥達が美しい声で鳴いていた。仏説阿弥陀経に「このもろもろの鳥、昼夜六時に和雅の声を出だす」と説かれているのは、このことかと思った。
  大菩提寺の門前には多くの土産物の店があり、スピーカーからは、「三帰依文」(ブッダン・サラナン・ガッチャミー、ダンマン・サラナン・ガッチャミー、サンガン・サラナン・ガッチャミー)の懐かしい唱和が繰り返し流されていた。

 マハボディー・マハビハーラの立派なWebサイト(http://www.mahabodhi.com/)が公開されているのでご覧になると良いと思う。Webサイトを開くと「敬礼文(きょうらいもん)」が繰り返し流れてくる。

 この日は、ブタガヤの宿に投宿。

 

ガンジス河の日の出


朝もやの寒い中、沐浴する巡礼者


火葬場ガート
(煙が絶える時がない)










菩提樹の葉が象徴


大塔の遠景


五体投地する巡礼者
 第四日目[1月23日(水)]・・・ナーランダ大学跡と大経説法の地 霊鷲山
  この日は、朝から雨、そして、途中から大雨で寒かった。このような大雨は乾季のこの季節にしては珍しいと言う。私達の乗ったバスは、雨漏りがひどく、座席もびしょびしょでビニールを敷いて座った。しかし、下半身は、じわっと湿ってきた。雨季であったらどうするのかと心配したが、雨季は暑すぎて観光旅行はない為、問題にならないのかなと考えた。

  バスは、ナイランジャナー河(尼連禅河)の河畔スジャータ村に到着した。苦行生活に終止符を打たれた釈尊は、村娘スジャータから乳粥の供養を受け、体力を回復し、悟りに向かって歩まれたゆかりの村である。雨が強くなり、バスから降りずに、スジャータの住まいのあった場所に建てられたと伝えられるストゥーパに往時を偲んだ。現在、スジャータ村の子供達は、日本からの支援で日本語を学んでいると言う。日本では、「スジャータ」と言うコーヒー用ミルクもあり、日本人にとって懐かしい名前である。
  雨の中、ナイランジャナー河の岸辺に降り立ち、ぬかるみで滑りながら、記念に「ナイランジャー河の砂」を採取し、記念にそしてお土産にした。

  バスは、ナーランダ大学跡に進む。雨脚は強く、寒さも厳しくなった。5世紀に創建された仏教の総合大学で、中国の留学僧玄奘が学んだ7世紀には、1万人の学生と1500人の教授が居住していたと言う。僧院跡では、各部屋(居間・台所・トイレ等)の間取りも分かり、往時の学生たちの学び・生活している姿が彷彿としてくる。寒さに震えながらバスに戻った。この地ナーランダ村は、お馴染みの「舎利弗」「目連」両尊者の出身地と言う。

聖地3:「大経説法の地 霊鷲山」

 次に、バスは、マガダ国の首都であった王舎城(ラージャグリハ、現在はラジギールと言う)へと進む。王舎城は、五つの山に周囲を囲まれた堅固な城塞都市であり、城壁が現存する。私達は、釈尊がビンビサーラ王から寄進を受けられたという「竹林精舎」を見学した。今でも竹の林が鬱蒼としていた。次に、ビンビサーラ王が、息子アジャータシャトル(阿闍世)に幽閉された牢獄跡を見学した。七重の牢獄に幽閉された王が、霊鷲山に向かい、はるか釈尊を礼拝されたのはこの場であったことを思った。
  霊鷲山(鷲の峰、耆闍崛山、グリドラクータ)の麓に着く。山裾から石畳の道が霊鷲山山頂に向かって続いている。ビンビサーラ王が、霊鷲山山頂で釈尊の説法を聞く為に作った道であり、「ビンビサーラ王の道」と言われている。風雨が強く、傘も風で壊れてしまいそうであった。風が強い為、山頂付近の洞窟(確かアーナンダ(阿難)の洞窟と書いてあったと思う)にて、副輪番の法話を頂いた。
  霊鷲山山頂に登る。山頂には、小さな釈尊の尊像と礼拝所が設けられていた。ここで釈尊は、「仏説大無量寿経(大経)」等を説かれたと言う。山頂は、30人程が登れば一杯になるような狭い場所であった。
 大経に「ひと時、仏、王舎城耆闍崛山のうちに住したまひき。大比丘の衆、万二千人と倶なりき。」と書かれている。聖典勉強会で梯實円先生から伺ったご法話を思い起こした。「“霊鷲山山頂は、狭い場所で大人数が座すことはできないじゃないか?また、スピーカーの無い時代、説法は聞こえないじゃないか?”等という人が居る。経典は、そのような貧しい心で読むものではない。現代に生きる自分も一人の比丘として説法を聞いていると思えば、心豊かに聖典が読めるし、現在生きている自分のものになる」と。
  あたりがうす暗くなってきたので急いで下山した。暗くなると治安が悪くなり、ピストル強盗が出るとの事であった。釈尊の聖地の雰囲気に浸っていると急に現実に戻された。霊鷲山山頂からの見る日没は、浄土の世界を見るような思いがするとの事であるが、風雨も強く、治安上の問題もあり実現しなかった。

 この日の宿は、法華ホテル。名前は、法華ホテルを名乗っているが、倒産し、経営はインド資本に変わっていると言う。夕食時に、今回の旅行団団員の皆さんが、順次自己紹介をした。皆さんそれぞれの経歴をお持ちで、巡拝の旅に参加された動機もそれぞれであった。中央仏教学院の卒業生の方もいらっしゃった。自己紹介により、より皆さんとの親密感が沸き、打ち解けあい、和やかな旅が続けられた。













 
玄奘も学んだナーランダ大学跡



ビンバサーラ王が幽閉された
牢獄跡



大経などを説法された霊鷲山山頂
 第五日目[1月24日(木)]・・・・・釈尊が好まれた説法の地 ヴァイシャリ  
 聖地4:「釈尊が好まれた説法の地 ヴァイシャリ」

  ラジギールからヴァイシャリを経由して釈尊入滅の地クシナガラまで移動する日。朝5時モーニングコール、朝食を頂き、7時出発。バスは、一路北へ北へと走る。途中、マウリヤ王朝のアショーカ王時代の都であったパトナ(パータリプトラ)を通り過ぎ、ガンジス河を渡り、さらに走っていくと釈尊を外護したリッチャヴィ族の都のあった「ヴァイシャリ」に着く。ヴァイシャリは、釈尊が、説法をされた地であり、<アーナンダよ。ヴァイシャリは楽しい。・・・7つのマンゴーの霊樹の地は楽しい>(注)、 と好まれ、雨安居を過ごされた地であり、釈尊がリッチャヴィ族の貴公子達の誘いを退け、遊女アンバパーリーの供養を受けられた地であり、釈尊が自らの入滅を予告され、「自灯明、法灯明」と教えられた地である。
 ヴァイシャリを離れる時、<釈尊は、象が眺めるように(身をひるがえして)ヴァイシャリ市を眺めて若き人アーナンダに言った。
”アーナンダよ。これは修行完成者が、ヴァイシャリを見る最後の眺めとなるであろう。さあ、アーナンダよ、パンダ村へ行こう”、と。>
 
 公園は、美しく整備され、菜の花畑(正しくは、香辛料の一種の花らしい)が美しくのどかであった。公園内には、アショーカ王柱とアーナンダ・ストゥーパが調和の取れた形で座していた。アショーカ王柱は、完全な形で残されており、1頭の獅子が乗っている。アーナンダ・ストゥーパの前で「讃仏偈」の勤行をし、法話を頂く。
 (注):<・・>は中村元訳「大パリニッバーナ経」より引用。

 途中、「チャイ」を頂いた。今回の旅では、行く先々でチャイを美味しく頂いた。チャイは、紅茶を水牛の乳で出し、砂糖を沢山入れて作る。寒かったせいもあり、大変美味しかった。

 バスは、走りに走って、目的地クシナガラへと進み、夜9時前に宿に着く。この日のバスの走行距離は410kmで全行程で一番移動距離が長かった。

 
アショカ王柱と
アーナンダ・ストゥーパ



アショーカ王柱の獅子像
 第六日目[1月25日(金)]・・・・・釈尊入滅の地 クシナガラ涅槃堂  
 この日は、遅いモーニングコールで7時に起床し、朝食を頂き、9時にゆっくりとした出発。
 バスの中より、クシナガラ遺跡公園の近くの釈尊の荼毘塚「ラマバール・ストゥーパ」を拝した。釈尊の亡骸は、クシナガラのマッラ族の人びとによって手厚く供養され、荼毘に付されたと言う。

聖地5:「釈尊入滅の地 クシナガラ涅槃堂」

  クシナガラに着かれた釈尊は、アーナンダに告げて言われた。
<さあ、アーナンダよ、わたしのために、二本並んだサーラ樹の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい>、と。
 釈尊涅槃の地クシナガラには、涅槃堂と沙羅双樹の大木が並び立っていた。涅槃堂に入ると金色の釈尊像が、頭北面西右脇に身を横たえて静かに入滅されていた。釈尊のお顔は、「涅槃(ニルバーナ)」に相応しい穏やかなお顔であった。
 「讃仏偈」の勤行の後、副輪番より法話をいただいた。釈尊像の前での法話は心にしむものであった。釈尊の涅槃像の台座には、釈尊の入滅を嘆き悲しむアーナンダの姿が彫刻され、嘆き悲しむ姿が真に迫っている。団員の中に仏具屋の方がいらっしゃり、金箔を提供してくださったので、私達も釈尊の頬に塗布させていただき、荘厳させて頂いた。涅槃堂の外に出て、沙羅双樹の落葉を採取し、記念に持ち帰った。
 下記Webサイトにクシナガラの涅槃堂涅槃堂の写真が紹介されているので、ご覧になると良いと思う。
http://www.thezensite.com/BuddhistPhotos/Kushinagar/Kushinagar.html)

  ホテルで昼食を頂いた後、バスは、この日の目的地ネパールのルンビニへ進む。インド・ネパールの国境において出入国手続きをし、ネパールに入国し、ルンビニへと走る。この日のバスの走行距離は240km。

  この日の宿は、ルンビニホッケホテル。敷地も広くゆったりとしたホテルであった。部屋の窓の一部は、ガラス窓ではなく、網戸のみであり、やたらと寒かった。部屋の暖房を入れようにも電源が入らず。フロントに聞くと「全室が一斉に使う為、容量オーバーで仕方ない。我慢してくれ」との事であり、布団を被って寝たが、寒くて風邪を引いた。風呂も全室が一斉に使うとお湯が出ず、翌朝朝早く入る事とした。仏跡巡拝先のホテルは、都会と異なり、快適ではないことを聞いていたが、まさにその通りであった。夜半に何か動物の叫び声がした。翌日、ガイドさんに行くと「狼(おおかみ)の鳴き声」とのことであった。 
 

涅槃堂の遠景と標識


穏やかなお顔で涅槃に入られた
釈尊像


釈尊の入滅を嘆き悲しむ
アーナンダ
 第七日目[1月26日(土)]・・・・・釈尊生誕の地 ルンビニ園  
 聖地6:「釈尊生誕の地 ルンビニ園」

  バスにてルンビニ園前まで行く。太陽の昇る朝もやの中、広大な公園の中を徒歩でマーヤ夫人堂へと進む。朝の気温は、5℃位でかなり寒い。無憂華の花が美しく咲いていた。マーヤ夫人堂には、靴を脱いで入る。薄暗い中、マーヤ夫人の右脇から釈尊が誕生される様子を描いたレリーフや釈尊誕生の地を示す「MARKER STONE : The Exact Birth Place of Buddha」を拝した。マーヤ夫人堂を出て、アショーカ王柱を拝した。アショーカ王自らこの地を参拝し、ルンビニ村の租税を減じたと言う。王柱の前で「讃仏偈」を勤行し、副輪番より法話を頂いた。
 ネパールの観光Web(http://www.nepaltravelinfo.com/lumbini.htm)にルンビニ園の紹介が出ているのでご覧になると良いと思う。

 ルンビニ園に別れを告げ、バスは、一路ネパール・インド国境へと進む。出発前、ネパールは政情不安が伝えられ心配したが、南部のルンビニ園あたりは、特に問題ないと言う。国境付近では、インド側で子供達のパレードが延々と続いていた。この日は、インド共和国記念日であると言う。バスの窓から見ていると行く先々の学校でも子供達や親達が集まり、集会をやっていた。インドも国をあげて「愛国心教育」をしているものと見た。
  昼食は、途中のホテルにて頂く。このホテルは、元はマハラジャの邸宅であったという。庭園も広く、バラの花が咲き綺麗に手入れされていた。部屋を見せてもらったが、豪華で壁には虎の剥製がかかっていた。昼食後庭に出ると象がやってきた。私達観光客を目当てに来たらしい。何人かの方が、象の背中に乗り写真を撮られた。元マハラジャの豪壮で広い邸宅とバスの窓から見た貧しい農村の村々との姿と対比して「貧富の差」の大きさを見た。

 次に、釈尊が、出家までの29年間を過ごされた釈迦族の居城カピラヴァストゥ(カピラ城)の遺跡ピプラーワーを拝した。カピラヴァストゥの遺跡は、ここインドにあるピプラーワーとネパールにあるティラウラコットの二つがあると言い、考古学者の間で論争になっていると言う。ピプラーワーには、大きなストゥーパと僧院跡が残されている。発掘調査の結果、水晶製の舎利容器が発掘され、今は、ニューデリーの国立博物館に収蔵・展示されており、仏教関係芸術コーナーの目玉となっている。遺跡内に「蓮池」が整備され、蓮が美しく咲いていた。やはり、釈尊の遺跡で蓮の花が咲いているのを見ると、似つかわしく思える。

 バスは、一路西に向かって走る。車窓から遥か遠く雲間にヒマラヤ・アンナプルナの山並みが見えた。ガイドさんの話では、めずらしいことと言う。私達巡拝団は、2台のバスに分乗して移動していた。私達は、1号車に乗車していたが、2号車が、走行中に燃料タンクが落下して走行不能となり、電話連絡を受け、私達の乗車していた1号車が戻り、全員が1号車に乗りホテルに向かった。その後、修理工場からエンジニアに来てもらい、修理し深夜にホテルまで戻ってきた。巡拝旅行のような遠路のバス旅行では、バスの故障や事故等のリスクに対する対策をとっておく必要もあり、団員が増え2台のバスで移動したことは、結果的に「リスク対策」となっていた。
 この日の宿は、サラバスティ。走行距離は230km。


 

朝もやの中、太陽が昇る
マーヤ夫人堂への道
(写真:村田誠己氏)


元マハラジャ邸宅の庭を
ゆっくり歩む象





カビラ城遺跡の蓮池

 第八日目[1月27日(日)]・・・・・小経説法の地 祇園精舎  
 聖地7:「小経説法の地 祇園精舎」

  サラバスティのホテルから近くのマヘート(舎衛城)の遺跡(スッダッタ長者屋敷跡、後は釈尊に帰依した殺人鬼アングリマーラ屋敷跡等)を拝す。舎衛城はマガダ国と並ぶ釈尊の伝道の拠点コーサラ国の首都があった地であり、その発掘調査は一部のみがなされただけであり、全貌は見えていないという。
 次に、サヘート(祇園精舎)遺跡を拝す。釈尊は、祇園精舎において雨安居を25回も行われ、説法を続けられたと言う。遺跡は公園として整備され、菩提樹などの樹木も植えられ、猿等の動物も沢山遊んでいた。東南アジアから参拝した僧侶の方々が、読経を続けていた。私達も「仏説阿弥陀経」の勤行をし、法話を頂いた。釈尊が、「仏説阿弥陀経」をこの地で説法されたことを思う時、感慨はひとしおであった。この日も寒く、石畳の上でのお勤め中、寒さが身にしみた。

 バスは、ラクノーまで走り、デラックスホテルで昼食を頂き、ラクノー空港へ。これで長かった仏跡巡拝のバスの旅は終わり、ラクノーから国内線でデリーへ約1時間の飛行。
 この日の宿は、ニューデリーのデラックスホテル。食事も部屋も快適であった。
 






美しく整備された祇園精舎の遺跡
(写真:村田誠己氏)
第九日目[1月28日(月)] ・・・・・世界一美しい建物 タージ・マハル
  バスは、デリーからアグラへと進んだ。アグラは、デリーからヤムナー河沿いに200km下ったところにあるムガル帝国時代の首都であり、イスラム文化の香り高い古都である。タージ・マハルは17世紀に建造された世界で一番美しい建物と言われている。ムガル帝国皇帝が、死んだ妃のために作った「墓」であると言う。タージ・マハルは、大理石で作った白亜の殿堂で、左右対称となっており、幾何学的な紋様が美しい。仏跡地とは違って、世界中からの観光客が多かった。
  アグラ城へ移動。アグラ城は、16世紀に造られたムガル帝国の権力の象徴であり、堅固な城であった。夕闇迫るアグラ城からヤムナー河越しに見るタージ・マハルの遠景はとても美しかった。

  この日は、11日にわたるインド仏跡巡拝旅行の最後の晩で、皆さんと打ち解けあって、旅の思い出を語り合い、楽しく夕食を頂いた。
 




夕闇迫るアグラ城からの
タージ・マハール遠景
 第十日目[1月29日(火)]・・・・・ニューデリー国立博物館 デリー空港発  
  バスにてアグラからデリーに戻る。デリー市内では、至る所に古い城壁が残っており、その歴史を感じさせる。
ニューデリー国立博物館へ行く。博物館は広く、また、展示品も多くとても一日では見ることはできない。日本語のガイドイヤホンを借りて早足でポイントを見て回った。仏教関連の展示品の目玉は、仏舎利と舎利容器であった。

 夜遅くデリー空港からエアインディア機にて成田に向け出発。帰りの飛行機は、古い機材ではなく、長い巡拝の旅が終わった安心感もあり、安心して飛行を楽しんだ。
 
第十一日目[1月30日(水)] ・・・・・成田空港着  
  約7時間の飛行で、成田に帰着。成田にて解団式を行い、皆さん健康で無事に旅を終えることができたことを慶び、解散した。今回のインド仏跡巡拝旅行は、築地本願寺の副輪番及び伝道学事部の皆さん、旅行社の方々が、用意周到な企画・事前準備をしてくださり、巡拝した聖地では、お勤めの指導や法話をして下さり、より実り多く心豊かな巡拝の旅となったことを感謝したい。
 
 インド仏跡巡拝の旅から帰って  
 最後に、インド仏跡巡拝の旅全体を通して私の感じた事、これからインド仏跡巡拝の旅を実現したいと考えておられる教育生の方々に参考になりそうな事を記してみたいと思う。

 先ず、インドの多様性。インド政府観光局の「インド仏教遺跡巡り」と題するパンフレットに「Incredible India」と書かれている。意味としては、「素晴しい、信じられないインド」と良い意味・悪い意味双方で書かれているようである。私は、「多様・広大・格差・雑然・神秘・悠久・発展」と言う言葉を当て考えた。インドの民族・宗教は多様で、「紙幣には、18種類の言語」が印刷されていると言う。多様性の故に「対立」も起きており、宗教間対立による無差別テロも現実のものとなっている。また、インドの都会と農村の格差は大きく、富裕層と貧困層の差は、非常に大きいと言う。都会のホテルには、富裕層の人達がドレスアップして食事をしているかと思えば、仏跡地の農村では、子供達が、裸足で歩いていた。仏跡地では、物売りや物乞いの子供達が多く、バスを降りて聖地に参拝するのもままならない程であった。インドの人達にとって、持てる者が、持たざる者に「喜捨をすることは、善根功徳を積む」ことになるので、持たざる者が、喜捨を願うことは、抵抗無いことのようであった。インドを旅していて、日本人の感覚からすると違和感のある事も多かったが、インドの人達から見ると「管理された現代社会」に生きる日本人の方が、異様なのかもしれない。インドは、短期間の旅では、窺い知れない奥行きの深さと計り知れない広さを持った国と理解した。

 次に、旅をしながら、常に疑問を感じていたのは、「インド全土に広がった仏教が何故、ほぼ壊滅状態になったのか?」と言うことである。先日、「伝道法話研修会」における五十嵐大策先生のご法話で中村元博士の説を紹介頂き、成る程と納得した。私が理解したのは、以下の如くである。「1203年にイスラム教の軍隊がインドに侵攻し、ヒンズー教、仏教の寺を壊し、僧侶を殺し、経典を焼いた。仏教だけ、滅びたのは何故か?理由は、仏教の僧侶は、王侯貴族から荘園等の寄進を受け生活は安定しており、難解な議論をしているのみで、葬儀等はやらず、一般の民衆から離れてしまったからだ。一方、ヒンズー教の僧侶は、葬儀等を執り行い、民衆の中に入っていった。それが、今日の彼我の差となっている。」やはり、宗教が一般民衆の広い支持を得る為には、「純粋な宗教の世界を高めていくこと」と「世俗の儀礼を通して民衆の心を掴むこと」双方が必要なのであると感じた。

 最後に、インド仏跡巡拝旅行は、主催もとがしっかりとし、旅行目的が自分のそれと一致した団体旅行に参加して行くべきと思う。釈尊に関する仏跡地は、インド亜大陸の北東部にあり、交通は、デリーを基点にして往復国内便で飛び、バスで移動することになり、個人での旅行は無理。仏跡地は、農村地帯にあり、ホテルは決して快適ではない。事前説明会では、蚊取り線香を持ってくるように言われたが、今回は、気温が低く寒かったので使うことはなかった。オーバーブッキングの時には、ひとり部屋で頼んでいても二人で宿泊することになる。バスは、農村の悪路を2000kmも走り、かなりきつく、途中のトイレもなく、菜の花畑で用を済まさざるを得ない。ペットボトルの水しか飲まなくても、お腹をこわした方も多かった。1月下旬は、インド旅行のベストシーズンとのことであった。資料などを見て、日本における3月上旬の気候かと思い、服装も準備したが、失敗であった。昼と夜の温度差は大きく、朝晩は寒かった。特に、ルンビニは緯度も高く寒かった。コート等の防寒対策をしていくべきと思う。
今回は、築地本願寺企画の旅行団に参加したが、単なる観光旅行ではなく、目的を同じくした巡拝旅行に参加させて頂いたことが良かったと思う。旅行後のアンケートに「仏跡巡拝旅行に行きたいと考えている方も多いと思うので、2~3年毎定期的に巡拝旅行を企画されることを期待したい」とお願いしておいた。

 私が、インド仏跡巡拝旅行に参加するにあたり、読みそして参考にした書籍を以下に示す。

 *「お釈迦さまの国 インド仏跡の旅−歩く・見る・感じる−」
   本願寺出版社 著者 文・鳥羽聿子、写真・中西康雄
 *「ブッダの旅」 岩波書店 丸山勇
 *「仏陀の旅 インド・ネパール仏跡紀行」 
   朝日新聞社 写真・福田徳郎、文・相沢啓三 (1981年出版)
 *「ブッダ最後の旅−大パリニッバーナ経」岩波書店 中村元訳
 *「21世紀仏教への旅 インド編(上・下)」講談社 五木寛之
 *「地球の歩き方 インド」 ダイヤモンド社

 最後に、ひとりでも多くの教育生の方が、インド仏跡巡拝の旅に出掛けられ、釈尊の聖地を自らの身体で感じてこられることを願って筆を置く。

付記:
 本紀行文を纏めるに当たり、築地本願寺伝道学事部纏めの「報告書」及び団員の村田誠己氏作成の「写真集DVD」を参考にさせて頂き、薄れ行く記憶を呼び戻させて頂いた。また、村田誠己氏に写真を提供頂き、掲載させて頂いた。心より深甚の謝意を表したい。
 本紀行文は、私が旅の道中で感じたこと、理解したこと、記憶にあることをそのまま書かせていただいたので、勝手な思い込みや誤解もあると思う。お気付きの点があればどうぞご指摘頂きたい。

             2008年12月8日(釈尊成道の日)記


パンフレットの表紙


 パンフレットの裏面


釈尊の成道を意味する菩提樹の葉


築地本願寺本堂の屋根