平成21年2月7日(土) 築地本願寺和田堀廟所の「如月忌」に参拝した。毎年この日には、九条武子夫人のご命日として法要が執り行れる。
当日の法要は雅楽の演奏も入った正信念仏偈作法であった。
九条武子夫人は、関東大震災で東京が未曾有の被災者を出したときに、真宗婦人会と共に日比谷公園などに救護救済所(後のアソカ病院)や簡易食堂を開設して、震災孤児などの被災者救済のために献身的な活動をされた。その後、東京真宗婦人会会長を勤められるなど児童愛護にご尽力されるが、大正13年、その過労のために発病されて、昭和3年2月7日に41歳でお亡くなりになった。法名は「厳浄院釈尼鏡照」、和田堀廟所に埋葬された。
和田堀廟所は京王線の明大前駅から歩いて10分のところ。甲州街道の上を走る首都高速道路の永福出口がすぐ前にある。関東大震災で築地本願寺の本堂が焼壊したとき、この地に仮本堂を移築し築地にあった多数の墓地を移転して和田堀廟所として建立されたと、沿革案内には記されている。当時は武蔵野の面影をとどめる玉川上水路は水清く小鳥のさえずる自然公園の墓地であった。先の太平洋戦争で本堂をはじめことごとく焼失したが、昭和28年に再建されている。本堂は、築地本願寺に似た古代インド様式の建物である。
今年の如月忌は次のような日程で開催された。
13時00分 法要(正信念仏偈作法) 雅楽演奏つき
13時40分 布教
講師 中西智海師(本願寺派勧学)
15時00分 コーラス 築地本願寺楽友会
「やさしさにであったら」
「合掌の歌」
「礼讃歌」
「月の砂漠」
「聖夜」
15時30分 九条武子様墓前参拝
16時00分 ぜんざい接待
歌「聖夜」は九条武子夫人の作詞で、混声コーラスの歌声が本堂に響きわたった。無量寿の清らかに光かがやく美しい歌詞だ。
1.星の夜空の うつくしさ
たれかは知るや 天のなぞ
無数のひとみ 輝けば
歓喜になごむ わがこころ
2.ガンジス河の 真砂より
あまたにおわす ほとけたち
夜ひるつねに 守らすと
聞くになごめる わがこころ
九条武子夫人の墓所は、ひときわ紅白の梅が咲き匂っていた。和田堀廟所は桜並木の名所で、ソメイヨシノが満開になるころは、参拝する人でにぎわうという。廟所の中には、作家樋口一葉や俳優水谷八重子、作曲家古賀政男など著名な文化人の墓所としても知られている。
帰りには、如月忌参拝記念として、におい袋「うつりか」が参拝者全員に配られ、ありがたくいただいた。
中西智海師の法話は、阿弥陀如来の本願を「知らされる」「気づかされる」ことの意味の深さを、九条武子夫人の言葉や歌のお味わいからお話された。
「かの一日の一大天災と同時に更生(こうせい)した私」という言葉について、
関東大震災で、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄界をみて、唯(ただ)のたとえ話と思っていた地獄の恐ろしさを目の当たりにしたときに、
「人もわれも 阿鼻叫喚の地獄界 ただにたとえと おもひてありき」
と、歌われている。更生というのは、蘇生(そせい)と同じこころで、「生まれ変わる」ことだと、気づかされる。
『歎異抄』後序より、「火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもつて そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ まことにておはします」と、親鸞聖人のおことばを解説された。
「金剛石も みがかずば 玉のひかりは そわざらむ
人も学びて後にこそ まことの徳は あらはるれ」
真の信心を金剛心という、金剛心は阿弥陀如来からたまわる心だから、如来の心すなわち本願との出会い、本願に気づかせていただくこと、体で感じることがなければならない、と示されました。
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和田堀廟所の本堂
九条武子夫人のお墓
法名は「厳浄院釈尼鏡照」
ご廟所に咲いていた紅梅
ご廟所に咲いていた白梅
築地本願寺の境内にある
九条武子夫人の歌碑
おおいなる もののちからに
ひかれゆく わがあしあとの
あぼつかなきや
昭和9年、関東大震災後に、
今の古代インド様式の築地本願寺を
建設指導した大谷光瑞
第22代ご門主は九条武子夫人の兄君。
歌集『無憂華』はあまりにも有名。
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