会員の便り No.10
(2009.8.21掲載)
第21回 親鸞聖人 関東御旧跡巡拝の旅行(袋田温泉コース)
平成21年6月25〜26日
「巡拝のしおり」と記録写真
「しんらんさまの田植歌」
真仏寺 常弘寺 西光寺 本泉寺 
 【袋田の滝】 
  法竜寺 慈願寺 照願寺 青蓮寺 
 水戸市 真仏寺の本堂前で巡拝者一同
親鸞聖人お田植えの御旧跡
            真仏寺
     (東京本願寺派)
                   茨城県水戸市飯富町3427
                     開基:真仏房(平太郎)


真仏寺の本堂





ここをクリックすると「衆会」合唱が聞けます
作曲:赤瀬川恵実
合唱:混声合唱団「衆会」
 (上の写真をクリックすると「衆会」
の合唱がお聞きいただけます)
【注】:録音は、音声圧縮ファイル(.mp3)で記憶されています。



真仏寺本堂でおつとめ
 常陸の国那珂西郡大部の郷(飯富町)に住み、親鸞聖人の教えを熱心に信仰する平太郎という人がいた。
 平太郎は、健保6年(1218年)稲田の草庵より聖人を招き、百日間の念仏弘通を蒙った。このときに、有名な聖人お田植えのエピソードがある。
 農民たちが歌を歌いながら田植えをしているが、念仏の声がない。聖人は自分から田んぼに降り、田植えの列に加わった。農民も喜び、お田植え歌をくちずさみつつ、田植えをしたという。

「しんらんさまの田植歌」 
  五劫思惟の苗代に 
  兆載永劫のしろをして
  一念帰命の種をおろし
  自力雑行の草をとり
  念々相続の水を流し
  往生の秋になりぬれば
  このみとるこそ うれしけれ
  南無阿弥陀仏
  南無阿弥陀仏


 平太郎は、これこそ真の仏と感激したという。
 真仏寺から歩いて15分ばかりの田んぼの中に「御田植えの御旧跡」の石碑が建っている。
 後年、平太郎は、領主佐竹氏について紀州熊野権現参りに同行したのだが、念仏者の身で神に詣でることに迷いを持っていた平太郎は、都にのぼり聖人を訪ねて伺うと、「夫聖教万差なり、何れも機に相応すれば巨益あり、唯有浄土一門可通入路」と諭され、参詣する。その夜、霊夢を受け、仏恩を喜び、師徳を尊んで、帰途再び京に聖人を訪ね、弟子となって法名を真仏房とたまわった。帰郷後は大部郡念仏道場を真仏寺と改めた。
 真仏寺には聖人自作と伝わる阿弥陀如来像が安置されている。
                                                  (大部山真仏寺)




二十四輩第二十番
              常弘寺
  (浄土真宗本願寺派)
                   茨城県常陸大宮市石沢1467
                                           開基:慈 善 坊 


 常弘寺の本堂




常弘寺の本堂でのおつとめ 

 常陸大宮市石沢の地に、関東二十四輩第二十番常弘寺がある。常弘寺は、創立以来寺基を変じない数少ない寺の一つであり、この地に七百五十余年の歴史を持っている。
 常弘寺の開基は、慈善房という。俗姓を後鳥羽院朝臣壺井大学頭橘重義といい、文学に才能があり、とくに歌道に優れた人であったという。
 重義は武蔵・相模両国を経て関東に下り、常陸国玉川辺村田郷に来て、その地の太子堂に参籠した。この太子堂で一夜を明かした重義の枕元に、夜半、夢とも幻とも思われぬ聖徳太子が現れ、「これより西南に高僧ましまして説法したまふ、是弥陀如来の化身なり。汝早く行きて要法を聴受せよ」と霊告した。
 重義はお告げのまま、稲田草庵に親鸞聖人を訪ね、教えを聞き、聖人の弟子となって、法名を慈善房と名付けられた。健保3年(1215年)のことである。
 その後、嘉禄元年(1225年)3月に、慈善房はこの有縁の太子堂の地に一宇を建立し、親鸞聖人から玉川山宝寿院常弘寺と号を賜った。それ以来、寺基を移すことなく、この地に七百五十余年の歴史を刻んでいる。
 常弘寺開基慈善房は、限りない信心をもって、次のように詠んでいる。
  「大谷の清き教えの名を残す
       これぞ誠の法の玉川」
 玉川山にある常弘寺の現在の本堂は、約四百年前に建てられたものであるという。素朴な作り、大屋根、梁の太さは日本人の郷愁をさそう風景である。
                      (玉川山宝寿院常弘寺)



 二十四輩第二十四番
              西光寺
  (真宗大谷派)
                    茨城県常陸太田市谷河原町735
                                          開基:唯 円 房 


西光寺の本堂




西光寺本堂でのおつとめ




ご住職による「鬼人成仏」絵伝のお説き

 西光寺の開基は、唯円房である。唯円といえば、歎異抄の選者である河和田の報仏寺開基の唯円が思い浮かぶが、ここの唯円房は、河和田の唯円房とは別人であり、同名異人との説が有力である。
 寺伝によれば、西光寺の唯円房は、俗姓を橋本伊予守綱宗といい、武蔵国楢山の城主で、十六万五千石の大名であった。かなりの勢力を持ち、一人子の清千代丸と共に、楽しい日々を送っていた。ところが清千代丸は八歳のとき病没してしまった。 このことが契機となり、仏法にひかれていくことになった綱宗は、身を修行者に変じ、城を弟に譲り、諸国を巡って、ついに常陸の鳥喰の地に至った。この地で一夜を過ごしたとき、奉持していた薬師如来の霊告によって、稲田に親鸞聖人を訪ね、念仏を聞き、生死出づべき道にめざめ、聖人の弟子となり、法名を唯円房と賜った。建保三年1215年)三月二日、綱宗四十三歳のときであったと伝わっている。
 この寺には、聖人にまつわる「鬼人成仏」の伝説がある。 昔、おためという十八歳になる美しい百姓の娘がいた。おためは郷土の篠田民部という豪族の家で、女中として働いていた。その家には六郎という屈強な若者がいた。身分を越えて、いつしか相思相愛の中になったが、六郎は親の説得に負け、近所に住む金持ち富豪の娘と結婚することになり、おためはその家を追い出されてしまった。おための激しい恋慕の想いは、いつしか激しい憎悪に変わった。「呪い殺してやる」と、おための心はいつしか鬼になっていた。
 その話を聞いた親鸞聖人はおためを哀れに思い、説法をするため会いに行った。なるほど鬼が一心不乱に祈りの行をしていた。聖人はさっそく説法を始めた。するとみるみる鬼はうなだれ、はては涙を流して話を聞いていたが、話が終わると、角は消えうせ、恐ろしい形相はなくなり、もとの美しい娘に変身し、成仏したという。
                     (鳥喰山無量光院西光寺)





  二十四輩第二十四番
              本泉寺
  (浄土真宗本願寺派)
                     茨城県常陸大宮市野上1264
                                          開基:唯 円 房 


本泉寺の本堂



本泉寺本堂でのおつとめ


ご住職のおはなし
 本泉寺の開基は、鳥喰の唯円房である。唯円といえば、誰もが歎異抄を思い出すが、この唯円については一人説・二人説・三人説とあり、いまだに判然としない。歎異抄の撰者といわれる河和田の唯円とは別人とも同一人とも、学者によって説が別れている。
 鳥喰の唯円は、本泉寺縁起によると、俗姓を鳥喰六郎兵衛朝業といい、常陸国那珂郡鳥喰村に住し、五千石を領していた。安貞元年(1227年)三月親鸞聖人の門に帰し、法名を唯円と授かる。その後、宝治二年(1248年)鳥喰村に一宇を建立。これが本泉寺のはじまりである。
 如信上人が奥郡の布教に情熱を傾けていたことはよく知られているが、唯円は文永九年(1272年)二月以来、如信上人の後見役として付き添い、さらに正応元年(1288年)からは覚如上人の後見役となり、教団確立のためにつくしたという。如信上人の後見役になった時は八十一歳、覚如上人についたのが九十六歳で嘉元元年(1303年)二月十五日に、百十一歳で大往生と、長寿を保ったといわれる。
 時を経て、本泉寺は二度の火災の不幸に遭っている。一度は天正十八年(1590年)江戸氏と佐竹氏が争ったときであり、二度目は慶安二年(1649年)落雷による焼失である。二度とも、古河へ難を避け浪寺となった。第一回の時は寛永八年(1631年)までの三十九年間、二度目は寛文四年(1664年)水戸光圀の招請で現在地に本泉寺を再建するまでの十五年間である。
 現在は、境内に隣接して保育園が建ち、優しい空気が流れる本泉寺である。







袋 田 の 滝

 本願寺二世如信上人往生の地
              法竜寺
  (真宗大谷派)
                     茨城県久慈郡大子町金沢
                                            開基:乗 善 房 



法竜寺本堂でのおつとめ



如信上人の御像



覚如上人御手植の大銀杏の前の
如信上人のお墓に参る

 親鸞聖人の孫の如信上人は、嘉禎元年(1235年)、京都で生まれた。幼いころから聖人の膝下に育ち、年を経るごとに、聖人の風貌をそなえたという。
 如信上人は東国に思いをはせ、関東に下り、奥州白河郡大網東山の郷に居を占め、親鸞聖人から受け継いだ本願の教えの伝道に、力を注いだ。
 如信上人で忘れることができないのは、いわゆる「報恩講」(祥月忌)である。如信上人が住んだ大網から、毎年十一月(旧暦)には京都にのぼり、祖父親鸞聖人の法要をいとなみ、墓前に御供米をそなえたという。本願寺三代の覚如上人は、上京してきた如信上人から、親鸞聖人の教えを受けた。
 このようにしながら、関東の地をはなれず伝道にはげむ如信上人の徳を仰ぐ人々が多かったのは当然といえよう。
 上金沢に庵を結ぶ乗善房もその一人であった。正安元年(1299年)十二月、乗善房は如信上人を自らの草庵に招き、その教化を蒙った。おそらく京都での報恩の御忌をすませて、大網への帰途の如信上人を招請しての法莚であったと思われる。
 しかし、長い旅の疲れに加え、長年の伝道の疲れもあったであろう、如信上人はこの地で病に臥し、翌年(1300年)一月四日、ついに六十六歳の生涯を閉じたのである。遺骨は上金沢の庵のある場所に埋められた。
 現在、如信上人の墓はうっそうと枝を広げる銀杏の巨樹に守られている。この銀杏は、延慶四年(1311年)如信上人十三回忌にこの地を訪れた覚如上人の手で植えられたものという。また、境内に同様にそびえるカヤの大木は如信上人御手植えのものといわれる。
 明治以降、法竜寺は真宗大谷派の管轄になり、現在は無住寺であるが、数少ない檀家によって護持されている。




 二十四輩第十三番
           慈願寺
 (浄土真宗本願寺派)
                栃木県那須郡那珂川町健武1220
                                      開基:信 願 房 


慈願寺の本堂











ご住職 池田行信先生






 茨城県美和村(今は常陸大宮市)と隣接する栃木県馬頭町(今は那珂川町)健武には、二十四輩第十三番慈願寺がある。大子と馬頭を結ぶ大通りをそれて、細い道を山の中へ向けて入っていくと、武茂川という小さな川がある。慈願寺はその川を渡りきったところの丘の中腹にある。
 寺伝によれば、開基信願房の俗姓は、清和源氏の流れをくむ佐竹の冠者、下野守昌義の孫で、稲木三河守義清という。義清は祖父昌義(法名蓮寂)の影響を受けて出家し、当初、法名を「慈清」と称した。
 後に、親鸞聖人を知り、稲田の草庵に参詣し、聖人の弟子となって「信願房定信」という法名を賜った。
 信願房は、天福元年(1233年)下野国安蘇の郡栗野鹿崎に一宇を草創。これが慈願寺の起こりといわれている。
 慈願寺は佐竹家との縁が深い。開基信願房が佐竹の血を引いていることもあって、佐竹一族から帰依を受けている。
 如信上人も大網から京都への往返の折、たびたびこの寺を訪れたという。三代慈慶法師の代に、覚如上人が東国巡回のとき、この寺にたちより「慈願寺」の寺号と「慈慶法名宗祐」をいただいたと伝わっている。
 本願寺の石山合戦のとき、慈願寺からも参加した人があり、その戦いぶりに功績があったとして、褒美にいただいたという阿弥陀如来像が、本堂に安置されている。手の一部は欠けており、石山合戦をくぐりぬけてこられた阿弥陀様の戦傷のみ跡という。
 慈願寺は、本願寺宗会議員であり、同窓会の勉強会の講師としてもお世話になっている池田行信先生のご自坊である。                         

                         (栗野山慈願寺)


            慈願寺本堂前で池田行信先生と参拝者一同




 二十四輩第十七番
            照願寺
  (真宗大谷派)
                  茨城県常陸大宮市鷲子町2236
                                         開基:念 信 房


照願寺の本堂



照願寺の梵鐘



照願寺本堂でのおつとめ


 栃木県と隣接する美和村(今は常陸大宮市)は山深い。照願寺はその美和村も奥まった鷲子(とりのこ)という地にある。正面には本堂、左には太子堂、鐘楼が見える。
 照願寺の開基は、念信房という。寺伝によれば、俗姓を高沢伊賀守氏信といい、この地方の高沢城主であったという。二十四輩の中に多い武士からの出家の一人だ。
 氏信は、守り本尊の観世音菩薩のお告げと、父の臨終の遺言により、稲田の草庵に親鸞聖人を訪ねた。自らの悩みを持ち、草庵を訪ねた氏信は、聖人の教化を仰ぎ、他力の不思議に心を引かれ、弟子となり、「念信房勝渓」と法名をたまわった。三十一歳のときである。そして那珂小舟(緒川村)の毘沙憧に草庵を結んだ。これが照願寺の起こりである。
 親鸞聖人も、六度この草庵を訪れたという。安貞二年(1228年)早春の親鸞ご化道は、“聖人見返りの霊木桜”の由来として、有名である。
 親鸞聖人五十六歳のとき、聖人は久慈川を越えて、はるばる奥郡教化にやってきた。念信房の草庵にも立ち寄り、説法された。桜のつぼみがそろそろふくらみ初めるころであった。親鸞聖人が、境内に入るのを待っていたかのように、桜は一時に花を開き始めたのである。
 聖人は「これ他力念仏門の世々繁昌する希瑞なるべし」と喜び、稲田に帰る途中、振りかえり振りかえり念仏を唱えたという。
 その後、開基以来およそ百五十年後、照願寺六代目のときに緒川村から現在の地鷲子に移築。元禄年間(1688〜1703)に“見返り桜”も境内に移植された。
 梵鐘は、戦時中に供出させられたが、昭和四十四年にゆかりの女優沢村貞子さんや加東大介、津川雅彦さんらによって寄進された。








 二十四輩第八番
            青蓮寺
  (浄土真宗本願寺派)
                   茨城県常陸太田市東蓮地200
                      開基:証 性 房


青蓮寺の本堂




青蓮寺本堂でのおつとめ
 青蓮寺は久慈郡水府村(今は常陸太田市)東連地にある。高台に向かって坂を上がりきると、目前に急に本堂の大屋根がせまってくる。大樹に囲まれ、眼下には山田川の流れがあり、いかにも仏縁の地という感じの深い静寂な地である。
 青蓮寺の開基は、証性房である。証性房は、有名な武蔵国の武将畠山重忠の次男で、畠山重秀といった。
 重秀は父重忠が戦死した後、元久二年(1205年)に出家して栂尾明恵上人の弟子となり、恵空と号していた。承元四年(1210年)十二月に栂尾を出て、父の墓を訪ね常陸の国に巡ってきたとき、この地の太子堂で一夜を過ごした。その夜太子の夢を見、そのお告げによって親鸞聖人に出会い、弟子となったのである。建暦二年(1212年)の春のこととされている。
 聖人の弟子となった証性房は、下野国塩谷郡犬飼に道場を開いたので、「犬飼の証性」といわれ、村人から親しまれた。
 その後、建保六年(1218年)、聖人に従って、再びこの有縁の地を訪れたとき、太子堂をはじめ堂宇の荒れているのを嘆き、境内を清めて、道場を創建したという。そして、寺号を青蓮寺と改めたと伝えられる。
 現在の本堂は、約二百年前の江戸期のものといわれ、寝殿造りの流れをくむ珍しい造りである。改修前は藁葺きであった大屋根は、その面影を残し、圧倒するような荘厳さを醸している。また、庫裡も武家造りの珍しい建物といわれる。
                          (皇跡山青蓮寺)