会員の便り

  浄 土 真 宗 本 願 寺 派

会員の便り No.31 (2018.07.22掲載)
「親鸞聖人ご旧跡参拝研修旅行 第4回に参加して」
~聞こえなくていい、見えなくてもいい:御同朋~ 専修課程3年 中野俊夫


1.はじめに
「ほろほろと 鳴く山鳥の 声聞けば 父かとぞおもう 母かとぞおもう」
行基菩薩のこのうたは、幼少年期に覚えた詩歌の一つである。幼少年期の記憶は消えない、生涯忘れることはないと思っている。
同窓会関東支部主催の親鸞聖人ご旧跡参拝研修旅行は、第1回と2回が京都のご旧跡、第3回が親鸞聖人配流先の上越のご旧跡であった。第4回の今年から、伝道の地、関東のご旧跡の参拝である。
6月23日と24日の1泊2日の研修で、私は在学生として参加した。今回は、過去3回に比べて在学生参加者が多く、他支部からの参加者もあり、バス2台に分乗した盛大な研修旅行であった。研修旅行の客観的な報告は同窓会紙上などに掲載されるので、ここでは参拝先の概要と、主観的で極めて個人的な感想を述べることにする。

2.親鸞聖人関東伝道のご旧跡参拝(第1日)
① 西念寺 真宗大谷派  茨城県 坂東市 辺田(はた)355-1

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西念寺は、もともと聖徳太子発願の聖徳寺と称していた寺院で、そのご、天台宗の寺院となった。江戸時代になり、関東二十四輩(にじゅうよはい)(*)の第7番西念房を開基とする西念寺に寺号を改称した。西念房は第三代覚如上人が関東に来られた際にも存命で、当時の親鸞聖人の様子を覚如上人に伝え、108歳で亡くなったと言われている。平安後期作の「阿弥陀如来座像」、室町時代作の「聖徳太子像」、“辺田村恋し”と響いたといわれる「鐘」、親鸞聖人お手植えの「松」などがある。
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~人の愛・憎しみ~
本堂に掲げられていた「人を愛する心は同時に人を憎む心でもある」の色紙を見て、私は一瞬驚き写真に撮った。色紙の意味は、それを味わう人それぞれで異なると思う。人間の性(さが)は「愛する心は永遠とはかぎらない、時には憎しみにも変わる」という意図であろうが親鸞聖人の法語とは思えない。「貪愛瞋憎之雲霧」の貪愛は「人の愛(*)」ではなく渇愛であり、私たちの煩悩の根源である。
② 妙安寺 真宗大谷派  茨城県坂東市みむら1793
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開基は成然房で、勅勘(勅命による勘当)により東国へ配流されていた折り、たまたま縁者にあたる親鸞聖人に出遇い、門弟となり、法名を成然円信と賜った。妙安寺は聖徳太子ゆかりの寺として創建されたが、廃坊と化していた寺院を成然房が再興して、妙安寺となった。「宗祖親鸞聖人-関東雛形の御真影木造」「太子堂-聖徳太子像」などがある。


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③ 小島草庵跡 下妻市小島498
親鸞聖人が常陸国に入り、最初に居住し伝道に乗り出した小島(おじま)草庵跡、ここに3年間居住したといわれる。草庵跡には、「古碑」、欽明天皇・用明天皇・聖徳太子・親鸞聖人の墓「四体仏」「稲田恋しの銀杏」と称する大樹がある。

④ 光明寺 大谷派  茨城県下妻市下妻乙350
開基は明空房で、親鸞聖人が小島草庵に滞在中に帰依し光明寺を創建した。光明寺蔵の古写本「親鸞門侶交名牒(きょうみょうちょう)」(*)に明空房は、六老僧の中に「明空」と記されている。その寺宝の巻物「親鸞門侶交名牒」を拝見することができた。明空房は柊(ひいらぎ)を好み「柊道場」と呼ばれ、現在も明空房が植えた柊があり、古木ゆえに葉はトゲトゲでなく丸葉である。親鸞聖人お手植えの「菩提樹」も境内にある。

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~慚愧~
幾星霜も経た明空房の植えた柊を見上げながら、医療関係のある先生が「人は生きたようにしか死ねない」といった言葉を思い出した。柊の葉のようなトゲトゲの人生を生き、残された時間は多くない自分である。明空房の柊の葉のように丸葉になって浄土に生まれたいと願った。信罪福心は本願他力の心ではない、自らの善根(お念仏)をもって回向しようとしたのである。

3.親鸞聖人関東伝道のご旧跡参拝(第2日)
①専修寺  栃木県真岡(もおか)市高田1482
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現在の真岡の専修寺(せんじゅじ)は、三重県に移転した真宗高田派本山の本寺(ほんじ)と呼ばれている。顕智上人が、御廟を営んだ「本寺御廟」がある。親鸞聖人等身御影、両脇壇に真仏上人と顕智上人坐像を安置する「本寺御影堂」、一光三尊仏を安置する「本寺如来堂」、江戸時代作で日本最大級の木造金箔塗り「涅槃像」などがある。
~涅槃像~
南伝仏教の国々で、幾度か涅槃像を拝観したことがあるが国内で拝観したのは初めてあり、同時に、阿弥陀仏一仏のみ教えである真宗寺院になぜ涅槃像が安置されているのか疑問が起きた。
② 西念寺[単立寺院] 茨城県笠間市稲田469
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西念寺は、親鸞聖人がご家族とともに約20年間お住まいになり、『教行信証』のご執筆と関東布教を進められた「稲田の草庵」(*)が由来で、浄土真宗発祥の地といわれている。
室町初期建立の渋い茅葺きの山門をくぐると、境内には樹齢800年の巨木が茂り、森厳としている。山々の稜線は、親鸞聖人が夢見られた比叡の峰を彷彿させる景観だという。日が落ちて、ここに来れば「ほろほろと鳴く山鳥」の声が聞こえてきそうである。 境内には「御頂骨堂・太子堂・太鼓堂」があり、少しはなれた田圃道に「見返り橋」がある。本堂の荘厳は、本願寺派と大谷派の折衷様式となっている。宮殿は本願寺様式、蝋燭立は鶴亀の大谷様式・・・などの組み合わせ。
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若い坊守さんが私たち一行を迎えてくれた。坊守さんから「私も、中仏通信教育専修課程で学んだので、今日皆様をお迎えするのはとても懐かしい」と、やさしい簡潔な挨拶があった。バスが西念寺を去るとき、坊守さんが白いマフラーを大きく頭上で振りながら見送ってくれた。


③ 大覚寺 本願寺派 石岡市大増3220
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大覚寺の由来は、後鳥羽上皇の第三皇子が出家し、周観大覚と称して、板敷山の南麓で草庵を結んだ。そののち、稲田におられた親鸞聖人の門弟となり、善性房鸞英と称して親鸞聖人の布教活動を支えた。
私たち一行を若住職が出迎えて、板敷山大覚寺の由緒、明法房弁円との出遭いなどの話を伺った。「親鸞聖人御満足の像」「弁円懺悔の像」などが安置されている本堂を拝観した。
境内には京都の桂離宮を模した「庭園」があり、「親鸞聖人説法石」「九条武子の歌碑」もあるが時間の関係でゆっくり拝観できなかった。大覚寺の若住職もバスが去るとき、白いマフラーを大きく頭上で振りながら見送ってくれた。

~聞こえなくていい、見えなくてもいい:御同朋~
西念寺の坊守さんと大覚寺の若住職は、バスが直進して去り、更に右折して丘の陰に隠れるまでマフラーを振り続けてくれた。私たちもバスの中で懸命に手を振ってそれに応えた。
お二人の姿が脳裏から消えていくとともに、坊守さんも若住職も私たちの応えを求めていない「聞こえなくていい、見えなくてもいい」の心、御同朋の心にちがいないと思った。それは、集団就職で我が子が乗る列車を、必死に見送る「母や父の心」と同じであろう。お二人の「慈母心・慈父心」は本願力により賜ったものであるはず、御同朋のすがたそのものと感銘をうけた。

④ 光照寺 大谷派 茨城県笠間市笠間2591
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稲田の草庵から東へ約5キロ、ここにはかつて親鸞聖人が滞在された笠間草庵があったという。開基は親鸞聖人の弟子の教明房実念である。光照寺には法宝物類や古文章が多く所蔵されているとのことである。親鸞聖人直筆の笠間門徒宛ての「御消息」は額に納められて仮本堂(本堂改築中)に掲げられていた(写真はWebから転写)。

4. あとがき
■ 脱稿にあたり、行基菩薩(8世紀、奈良時代)の詞をネットで調べてみると、鎌倉時代後期の『玉葉和歌集』に掲載されていることが分かった。それによると「山鳥のほろほろと鳴く・・」となっており、山鳥を詠んだ位置が私の記憶と違いがある。更に調べると、行基菩薩の詞を成田為三が合唱曲にしたものが、
 ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば
 父かとぞ思い 母かとぞ思う
 ほろほろ ほろほろ ほろほろと
「ほろほろと鳴く山鳥の・・」
の方がより哀愁があると思い訂正をためらった。
「二十四輩」は、親鸞聖人の関東時代の高弟24人と、その24人を開基とする寺院のこと。二十四人の制定は種々の説がある。成立は覚如上人の時代と言われている。
■ 武者小路実篤の「天に星 地に花 人に愛」の色紙が有名。日本には古くから愛という漢字はあったが、明治になってLoveの意味を当てた。『正信偈』の「貪愛瞋憎之雲霧」にLoveをイメージすると分からなくなる。「貪愛」は貪欲である。そこで、鎌倉時代の親鸞聖人の法語で「Love」の表現はどうなっているか興味を抱き、調べると沢山あることに気づいた。詳細は省くが「大悲」が「Love」の筆頭と思う。但し、「愛別離苦」の「愛」も明治からの四字熟語だろうか?
「親鸞門侶交名牒」は、師弟関係の系図のようなもので鎌倉時代末期から南北朝時代につくられた。他に愛知県妙源寺、京都光薗寺に古写本がある(浄土真宗辞典参照)。交名牒に「住」とあるのは「住んでいる武士階級の者」という意味で、親鸞聖人の主な門弟は武士であったことが分かるとのこと。
「・・の草庵」と名のつく草庵が関東に10ケ所ある。その一つ「稲田の草庵」に親鸞聖人と家族が逗留したのはほぼ確かであるという。

来年の研修旅行は、茨城県東側にある親鸞聖人と門弟のご旧遺跡の参拝である。『歎異抄』の唯円房のご旧跡も参拝することになると思うので楽しみである。
                                            合掌

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